どこにいるの?
2014年 03月 10日だいすきなじいちゃんと別れ、
横浜に帰って来た。
じいちゃんの骨を持って帰って来た。
これからの一生を、また違った形で続く関係を、持って帰って来た。
ようやく、卒業と教員免許の取得が決定した!
ほっとした―。
ほんと、トンマだから、どっかで仕損じるんじゃないかと誰よりも心配だったのはこの私さ!
言われるまでもないよ、超心配だった。
けど決まったから!
あーよかったー。
卒論も、十分すぎるお褒めの言葉をいただいたし、
惚れた腫れたも過ぎ去った。
空気は冷たいけど日差しは暖かな春の予感。
こんなにも喜ばしい気持ちで春を迎えたことがあったろうか!
私の心や、力が、少しずつ私のものになってきている。
なにこの、充実感!力!たぶん、心と体の痛み!
じいちゃんの看病、通夜などと前後して、
福満しげゆきさんの『僕の小規模な生活』にがっつりハマってしまい、
6巻などは声をあげて笑いながら読んだ。
私はなんだかんだいってすぐにキャパがいっぱいになってパニックになってしまうので、
看病や通夜などで、すごく強い感情が直接心に流れ込みそうになるのを、
自分とはまったく違う自意識に逃げこんで回避します。
だからこの時期に読んだ、
小島政二郎『円朝』や山田太一『冬の蜃気楼』、
福満しげゆき『僕の小規模な生活』には、
大変助けられたし、何より影響を受けています。
こんな遠回しな言い方をしても仕方ないな。
もう、大好きです、この方々。たまらないです。
自意識が強いことはさることながら、そこがまったく安住できる場所ではなく、
絶えずそこからはみ出したり突っ走ったりしながら、
自分ではない人間、他者の心に触れて、
喜んだり痛んだりする。
これを当たり前だって思ってる人、いるでしょう。
普通のことだしみんなやってると思ってるでしょう。
案外やってないんですよ、みなさん。
けっこうたくさんの人が、傷つくのが怖くてある程度他人に対して無関心決め込んでるんですよ。
それか本当に興味がないんですよ、自分以外の人間に。
びっくりするくらい。
子どものころ、何にもわけわからんから虫とか平気で触ってたけど、
物ごころついて知恵が回り始めると触れなくなるでしょ。
それと一緒で、ずんずん人に踏み込んだり人が踏み込んできたりすることをゆるしていたのが、
そういうこと自体をしなくなっていくんですよ、だんだん。
私は大人になるのが結構遅かったので、そのあたりかなり自覚的です。
理由は様々ありますが、一番はエネルギー不足。
仕事もたくさんあるし、夏休みはないし、時間もお金も有限なのが大人の世界。
「見たことのないもの」「しらないこと」もだんだんと減っていき、
刺激に対する耐性があるようでなくなっていくんです。
新たな刺激が怖いんです。
今まで培ってきたよりどころを、大きな力でひっくり返されることを嫌うんですよ。
それが怖いために、自分の今考えていることが正しいと思いこもうとする悪循環。
大人になればなるほど心を新しくする機会が減って、どんどん腐っていくわけです。
心が腐る、というのは比喩ではないと私は思っています。
心が腐ってしまうと、新しくなる機能が衰えて、
自分自身の情動や外界からの刺激にすごく鈍感になってしまうのです。
しかも、世界はこくこくと変化しているので、どんどん世界と齟齬が生まれていく。
挙句の果てに「世の中は何もわかってない」とか中学生みたいなことを言い出す始末。
目も当てられない!
そういうことをさせない為に、
芸術は闘っているのだと思います。
自分の外に世界があるということを教えるために、
芸術があるのだと思います。
宗教もそうです。
「自分がいちばん正しい」なんていってくれる宗教は、この世にありません。
自分よりも大切な物を知るために、宗教があるのだと思います。
自分の外に出るための方法を教えてくれるのが、宗教だと思います。
自分のことしか考えられない私が、自分をちゃんと愛するために、
他者のことを生かすことができるように。
自分を愛するということは、他者を生かすということなのです!
だから愛だなんだとのたまって他者を支配しようとするのはおやめなさい。
それ、愛じゃないから。
むやみに自分を犠牲にしようとするのもおやめなさい。
それも、愛じゃないから。
他者を生かすことによって、自分を愛するのですよ。
それが心にとって一番いいことなのです。
さみしさに抗うただ一つの方法なのです!
散文!!!
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by mouthes
| 2014-03-10 15:50
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