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皆殺し文学はやめだ

by mouthes

快楽と道徳/感覚的言語と論理的言語

最近考えていること。
コミュニケーションの目的。



「共感なんてありえない」っていうあの人の言葉から考えたこと。
「だって何を考えてるかなんて本人に聞かないとわからないじゃないですか。
 ”こう考えてるかもしれない”なんてわかった気になって良い気持になるのは思い込みですよ」って。

でも”共感”は実感としてあるから、あれは何を感じているんだろう。

あれは快楽なんだよな。快感と言ってもいい。
誰かと話していて、”共感”していると思っているときは、”気持ちよさ”を共有しているんだよ。
相手が何考えているか理解してるとかではなくて、
話す気持ちよさと、聴く気持ちよさが、一致している状態が”共感”なんだよ。

だから言っていることなんてかみ合わなくていいし、内容なんか理解していなくっていいんだよ。
一緒にいて気持ち良くなることが目的なんだから。

そこが、あの人とは違うんだろうなあ。
あの人はきっと、論理の上で理解し合うことが目的なんだろうなあ。

私はそんなことをしてもあまり気持ちよくないから、ずっと噛み合わないんだろなあ。




そして、感覚的言語と論理的言語があって、
これも私の実感に感覚的な言葉をあてはめているだけだから、
具体的な説明は難しいんだけど、
イメージとしては論理的言語は新書、論文、
感覚的言語は南海キャンディーズの山ちゃんがすごくうまい。

お笑い全般が感覚的言語の遊戯のようにも思うし、
美術も音楽も感覚的言語だと思う。

感覚的言語は論理によって誘発・補完されることがあるし、
かといって論理的言語では感覚を呼び起こすことはできない。
感覚の仕組みを理解させることはできても。

感覚的言語が手品そのものだとしたら、論理的言語はそれのネタばらしと言ってもいい。

全ての感覚的言語は快楽のためにあるのだと思う。
論理的言語の中にも快楽はあると思うけど、論理的言語の目的は快楽ではないような気がする。




普遍性?



ちょっとしゃらくせえ気がする。




感覚的言語を論理的言語に落とし込んで理解しても何も意味がない。
感覚は、その感覚を覚えるしかないから。
死を言葉では理解できないように、生を言葉で理解することはできない。
感覚っていうのは生そのものだよ。

「気持ちいい」っていうことに理屈はないからなあ。感覚の方が先だからなあ。

快楽の感覚が広い人もいれば、
「ここ一点しか気持ちよくない」っていう人もいる。

快楽の感覚が広い人の中にも、その人なりの「道徳」がそれを制限していて、
その道徳からはみ出てしまうと気持ちよくないっていう人もいる。



感覚的言語は、生まれたころから使う。
論理的言語は、訓練によって獲得する。
しかしその二つは補完し合う関係にあるので、優劣はない。
感覚的言語は弱くもあやふやでもごまかしでもない、それでしか表せないもの・それでしか表すことのできない快楽だし、
論理的言語はその快楽を広範に利用するための仕組みを説明している。

感覚の中にも論理はある。
論理は感覚を伴わなければ机上の空論である。

そんな当たり前のことを、私は最近言葉にできる用意なった。



だから、

自分の理解できないことをしている人は、
それが「気持ちいい」からしているのだと思えば、
その気持ちよさを理解することはできなくても、
気持ちよさの仕組みを理解することはできる。

突飛な格好をしている人も、
真意をごまかし続けて生きている人も、
熱血先生も、
なんらかの常習犯も、

それは気持ちいいからそうしているのだ。
同じように「気持ちいい」と感じる必要はない。
わたしは、なんか気持ちよさを損しているような気分になるから感じたいと思うけど。
強欲ゆえ!


気持ちよさに理屈なんかないっすよねー
気持ちいいから気持ちいいんすよねー
超気持ちい!



「俺はこれが気持ちいい」に意地を張っている人たちを見に、
スチャダラの野音いってきまーす。







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by mouthes | 2013-06-16 15:05 | footmarks