「ほっ」と。キャンペーン

皆殺し文学はやめだ

by mouthes

<   2014年 03月 ( 4 )   > この月の画像一覧

「しゃべる」という動作がとにかく億劫で苦痛だという人がいるらしい。
頭を使い、口を動かし、相手の言っていることを理解するために聞く、
そういう動作に快楽のない人というのがいるらしい。

私には思いもよらないことだった!

他に例をあげるとすれば、「セックスが気持ち良くない」とかそういう話。

そんな人いるんだ!!!!



おもしれー!

しゃべるという行為だけで気持ちよくて楽しくて、これ以外は何もしたくないとすら思う私がいる一方で、

言語化されない感覚に価値はなく、議論にならない会話を無益な物と切り捨てられる、

そういう人がいるんだ!!!



おもしれー!




私は、自分の意見や立場なんてものはあまり価値がないと思っています。
何かを正しいと言い募ることには何の快楽も喜びもありません。
そんなことよりも、私は一分一秒でも長く気持ちよいことをしたいし、この世につまらないと思うことをひとつでも減らしてより多くの物を楽しみたいのです。

そのためには、強い感受性とタフな肉体以外に必要な物はありません。
イデオロギーやプライドなど燃えないゴミの日に捨てればいいのです。

それが唯一の立場といえば立場です。しかし有名無実なのは言わずもがな。
ニュートラルというのでもないし、
私は、ただただ強欲なのです。


そしてこの立場の一番の敵が、差別と偏見です。
差別と偏見は自分の視座を狭め、貶め、すべての人から楽しみを奪います。
そして「こいつよりは上だ」「こいつとは違う」という本当にちっぽけな見栄を守るためだけに人を排除したりしようとするのです。
くそったれが!


そこに楽しみや喜びがなければ誰に従う義務があるのだ?と問いたいね。


ただ、私のこの快楽というものが刹那的であることは否めないのです。
決して社会的でもなければ建設的でもありません。
そして世の中には殺人の快楽や禁忌を犯すという快楽も根強くあるので、
それに対して拒絶できない私の倫理はやはり破綻しているのです。

だからこれは倫理ではなく我欲で、声高に叫べるものではないなあと思うのです。
否定できない強い欲求ではあるけれど。




「論理的な会話」や「建設的な議論」を会話の重要な目的だと考えている人たちに対する質問がいくつかある。

・論理的でない感覚やそれを言語化できない人間は切り捨てる(排除する)ことになるが、それは「損」だとは思わないのか?

・たとえば知的障害があったり精神疾患がある場合そういうことは困難になる場合があるが、その人たちの持つ感覚や言語、たち振る舞いはまったく「意味がない」または「存在しない」ことになるのか?

・自分が認識できるもの以外に価値を見い出さないというのはあまりにも傲慢な態度ではないか?

・私はそれこそ「人をなめた態度」だと思うが、どうか?

・感覚を広げていくことに関しては興味関心はないのか?そこに快楽はないのか?

・というか刹那的な快楽は価値として認められないのか?



私はまったく誇り高いわけでもなければ自分に自信があるわけでもありません。
人並みに評価されたいとは思うけれどどうすれば評価されるかということまで頭も回りません。
自分が計画を立ててそれに沿って行動し自分が狙った通りの評価を得たときに、
「やっぱりね」以外の感想がなくとてもつまらないからです。
私の脳はつまらないと思うことに対しては本当に動きが鈍くていけません。

自分が面白いと思うことを心のままに表現できる人間が一人でも増えればいいと思って教師になろうとしています。
自分とは全く考えの違う人間や、思いもよらない発想をする人間、
そういう人が増えれば増えるだけ世界が強く新しく楽しくなるからです。
そう、世界が!

ただ、これは野望であって、教員の基本的な業務とはやっぱり異なるのだと思います。
私は論理に批判されない技量や納得してもらえる知識量を持つ必要があるのだということも痛感しています。



でも、それだけじゃないよね。



楽しいっていうのは、楽しいっていう感覚でしか理解できないはずだもん。



そういうことを、今度引っさげて言ってみよう。
[PR]
by mouthes | 2014-03-22 03:19 | footmarks
じいちゃんが、死ぬ前の時間を、長く共有したうちのひとりだろうと思う。
入院してからすぐと、入院してしばらく。
入院する前とは少し変わってしまったじいちゃんと、家に帰りたいというじいちゃんを見ていた。
痩せた体。力のない眼。
どれほど年をとっても、腰が曲がっても、
家にいるときは、ゆるぎないじいちゃんからは感じたことのない不安と悲しみ。

そういうものを、できるだけみないようにして、
自分は元気でいようと思った。
自分を守ることがまず先に立って、次に支える方が疲れちゃいけないと言い訳してた。

じいちゃん。
すぐ泣く私の涙なんかに深い意味はないけど。
ええかっこしいで見栄っ張りのお調子者だって、きっとばれてるけど。

もう増えることのないじいちゃんの日記が、
いつも寝る場所に置いてある使われない枕が、
なるみの誕生日を祝うのにじいちゃんがいないことが、
さみしいよ。
じいちゃん。

死に顔を触ったのも、骨をもらったのも、
それくらい死が遠かったからだ。

近づいて、また遠ざかるんだろうな。





最近気付いたことのひとつに、

誰もが納得できるただ一つの真理なんてないんじゃないかって思った。
真理っていうのは、きっとたくさんあるのだ。
みんながそれぞれの方法で、自分だけの真理にしかたどり着けないのだ。

それにはいくつか、もしかしたら共通点があるのかもしれないんだけど、
その共通点をさがしたり分類してさらに細分化したりすることにまったく意味はないと思った。

「共通する何か」が真理なのではなくて、

「違う」ってことが真理なのだと思う。

整理や分類っていうのは、その末に何かがわかるのではなくて、
違うってことを認識するための前提条件に違いない。

だから寝ているときによく見る夢のように、
混沌としていること自体が真理で、存在があるってことなんだともう。
混沌としていることを編集して混沌でなくしてしまうことは、真理でもなければ本当でもないと思う。
納得のできる嘘でしかないのではないかと、思う。

恋をしているとき、そしてとくに失恋したとき、
世界で重要な問題はそれしかないような感覚に陥る。
この感覚は過ぎ去ってしまえばばかばかしいことこの上ないんだけど、
「ある」という一点でやはり真理なんだと思う。

じいちゃんが死んだときすぐ涙にならなかった感情が、
時に笑いになって、怒りになって、悲しみになるんだけど、
矛盾する状態が同時にあるってことが、やっぱり本当なんだと思う。


松岡正剛さんのしている「編集工学」は、
つまり混沌を編集する方法自体をひも解くことで、編集される前の混沌に触れようとしているのではないかと思う。

死ぬ前のじいちゃんは、混沌としていて、
昨日のことを覚えている半面何十年も前の鳶だったころの記憶で怒ることもあった。
私の知っているじいちゃんは、自分のことはほとんど話さない人だったし、
感情をあらわにすることも少なかった。
死ぬ前には、そういう寡黙なじいちゃんと、不安なじいちゃんと、ダダをこねるじいちゃんが混在していて、
みんな「どれくらい意識があるんだろう」といぶかっていたくらいだけど、
人としてあれほど本来的な状態もないのだろうな、と思う。

混沌を、なるべく編集せずに実感し出力することはできないだろうか。
それは、「美しい」ってことなんじゃないかと、古い問いに答えを見い出す。


曽我部さんが『まぶしい』で歌っているように。
[PR]
by mouthes | 2014-03-14 14:56 | footmarks

どこにいるの?





だいすきなじいちゃんと別れ、
横浜に帰って来た。
じいちゃんの骨を持って帰って来た。
これからの一生を、また違った形で続く関係を、持って帰って来た。

ようやく、卒業と教員免許の取得が決定した!
ほっとした―。
ほんと、トンマだから、どっかで仕損じるんじゃないかと誰よりも心配だったのはこの私さ!
言われるまでもないよ、超心配だった。
けど決まったから!
あーよかったー。

卒論も、十分すぎるお褒めの言葉をいただいたし、
惚れた腫れたも過ぎ去った。
空気は冷たいけど日差しは暖かな春の予感。
こんなにも喜ばしい気持ちで春を迎えたことがあったろうか!

私の心や、力が、少しずつ私のものになってきている。
なにこの、充実感!力!たぶん、心と体の痛み!

じいちゃんの看病、通夜などと前後して、
福満しげゆきさんの『僕の小規模な生活』にがっつりハマってしまい、
6巻などは声をあげて笑いながら読んだ。
私はなんだかんだいってすぐにキャパがいっぱいになってパニックになってしまうので、
看病や通夜などで、すごく強い感情が直接心に流れ込みそうになるのを、
自分とはまったく違う自意識に逃げこんで回避します。

だからこの時期に読んだ、
小島政二郎『円朝』や山田太一『冬の蜃気楼』、
福満しげゆき『僕の小規模な生活』には、
大変助けられたし、何より影響を受けています。
こんな遠回しな言い方をしても仕方ないな。
もう、大好きです、この方々。たまらないです。

自意識が強いことはさることながら、そこがまったく安住できる場所ではなく、
絶えずそこからはみ出したり突っ走ったりしながら、
自分ではない人間、他者の心に触れて、
喜んだり痛んだりする。

これを当たり前だって思ってる人、いるでしょう。
普通のことだしみんなやってると思ってるでしょう。

案外やってないんですよ、みなさん。

けっこうたくさんの人が、傷つくのが怖くてある程度他人に対して無関心決め込んでるんですよ。
それか本当に興味がないんですよ、自分以外の人間に。
びっくりするくらい。
子どものころ、何にもわけわからんから虫とか平気で触ってたけど、
物ごころついて知恵が回り始めると触れなくなるでしょ。
それと一緒で、ずんずん人に踏み込んだり人が踏み込んできたりすることをゆるしていたのが、
そういうこと自体をしなくなっていくんですよ、だんだん。
私は大人になるのが結構遅かったので、そのあたりかなり自覚的です。

理由は様々ありますが、一番はエネルギー不足。
仕事もたくさんあるし、夏休みはないし、時間もお金も有限なのが大人の世界。
「見たことのないもの」「しらないこと」もだんだんと減っていき、
刺激に対する耐性があるようでなくなっていくんです。
新たな刺激が怖いんです。
今まで培ってきたよりどころを、大きな力でひっくり返されることを嫌うんですよ。
それが怖いために、自分の今考えていることが正しいと思いこもうとする悪循環。
大人になればなるほど心を新しくする機会が減って、どんどん腐っていくわけです。

心が腐る、というのは比喩ではないと私は思っています。
心が腐ってしまうと、新しくなる機能が衰えて、
自分自身の情動や外界からの刺激にすごく鈍感になってしまうのです。
しかも、世界はこくこくと変化しているので、どんどん世界と齟齬が生まれていく。
挙句の果てに「世の中は何もわかってない」とか中学生みたいなことを言い出す始末。
目も当てられない!

そういうことをさせない為に、
芸術は闘っているのだと思います。
自分の外に世界があるということを教えるために、
芸術があるのだと思います。
宗教もそうです。
「自分がいちばん正しい」なんていってくれる宗教は、この世にありません。
自分よりも大切な物を知るために、宗教があるのだと思います。
自分の外に出るための方法を教えてくれるのが、宗教だと思います。

自分のことしか考えられない私が、自分をちゃんと愛するために、
他者のことを生かすことができるように。



自分を愛するということは、他者を生かすということなのです!
だから愛だなんだとのたまって他者を支配しようとするのはおやめなさい。
それ、愛じゃないから。
むやみに自分を犠牲にしようとするのもおやめなさい。
それも、愛じゃないから。
他者を生かすことによって、自分を愛するのですよ。
それが心にとって一番いいことなのです。
さみしさに抗うただ一つの方法なのです!


散文!!!
[PR]
by mouthes | 2014-03-10 15:50 | footmarks

「まぶしい」の地平で

f0112996_22594927.jpg







曽我部恵一「まぶしい」を聴いてる。
何度も何度も。
アルバムに先駆けて2/28に渋谷クアトロのライブに行ったことも強く影響している。



2/28の曽我部さんの放つ緊張感といったら、みたことがないほどすさまじかった。



事前情報にあったとおりの曽我部さんマイクのみ、尾崎友直さんギター、ソカバンでおなじみオータコージさんドラムという、
アメリカ西海岸を思わせるような(よく知らないけどそういうイメージ)不思議な編成は、
ライブハウスで目の当たりにしてもやっぱり不思議だった。
この編成を聞いて色めきだってワクワクした人もいれば、二の足を踏んだ人も多いだろう。
多作であり、七変化のように様々な表情を見せる曽我部さんの音楽だからこそ、
「またあのわかんないやつかな?」って思った人もいるだろう。
朗読とかラップを見せ続けられるやつなら今回は見送ろう、弾き語りかソカバンじゃないならやめておこう、
そんな風に行くのをためらった人もいるんじゃないかな。

結論から言うと、



あーあかわいそうにこのマヌケ!



って感じです!!!!



あの日見たものを適切に言葉にできる力が、今の私にはありません。
だって、今までのこととこれからのことが、
一気に体に流れ込んできて今の自分の中でひとつになったんだもん。
そんな体験は、本当に久しぶりだった。
5年前の受験勉強をしていた5月の昼下がり、
なぜか突然私の命は太古まで遡ることができるという事実を実感したあの瞬間とか、
生まれて初めて好きな人とセックスをして自分の痛みよりも他人の快楽を望めた時とか、
そういう時に味わった「これまでとは決定的に自分が変わってしまう瞬間」が、
あのライブにはあった。



何が変わってしまったか、わかるまでには時間がかかる。
だけど変わったことだけははっきりとわかる。
私が頑なにこだわっていたことの全てが、本当にくだらないことだとはっきりわかった。
名前や、契約や、経験による裏付け。
人の感情をつなぎとめる技術。
自分を卑下すること。
私を満足させるために必要だと思っていたことの全て。



なんて儚くてつまらないあれやこれ。
それをかき集めることに必死になって見落としてしまったものが、
そのライブには確かにあった。

それはわたしの感情。
好きな人に働きかける気持ち。
うれしいことをうれしいっておもうこと。
いじけたり諦めたりすることよりももっともっと強い求心力で私を巻き込む、
人の心に触れたいというあの強い欲望。



できることが増えて、選ぶことができるようになった時に忘れてしまったことが、
こんな形で自分に返ってくるなんて。

曽我部さんはFacebookに「自分の歌の上に重なっている色々なものを、ひとつずつゆっくりとかきわけていくような、払い落としてゆくような」ライブをしたというようなことを言っていたけど、
削ぎ落とせば削ぎ落とすほど、ライブハウスに曽我部さんが充満して行くあの感じは一体なんだったんだろう。
景色やメッセージが単純であればあるほど、見たこともないように感じるのは一体なんだったんだろう。
飽きるほど聞いたことのある歌が、思い出も感情も引き摺り出して体の中で爆発したのはいったいどういうわけだったんだろう。



聞き流すことのできない歌による嵐が、
私をずぶ濡れにして心の奥まで染み込んでしまって未だに乾かない。
私が今まで何を持っていたというのだろう。
手に入らなくて泣いて歯ぎしりをしていたものはなんだったのか。
はじめから、そんなものはなかったのに。

いままでデコボコの獣道だと思ってあくせくしていたものは、
それは自分が背伸びしたり這いつくばったりしてるだけのただの平らな地平だったって、言ったら信じる?



私が持っているものも、欲しいものも、たったひとつだけだった。
自分だ。
私は自分であって、自分になりたかった。

何度も聞いたことのある台詞。
聞いたことのある歌。
見たことのある景色。
その意味がやっとわかったのは、一瞬だけ自分になれたからだと信じたい。

「まぶしい」が歌っているように。
[PR]
by mouthes | 2014-03-03 20:31