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皆殺し文学はやめだ

by mouthes

再び感覚的言語、快楽はもっとひろがってゆけ!

「しゃべる」という動作がとにかく億劫で苦痛だという人がいるらしい。
頭を使い、口を動かし、相手の言っていることを理解するために聞く、
そういう動作に快楽のない人というのがいるらしい。

私には思いもよらないことだった!

他に例をあげるとすれば、「セックスが気持ち良くない」とかそういう話。

そんな人いるんだ!!!!



おもしれー!

しゃべるという行為だけで気持ちよくて楽しくて、これ以外は何もしたくないとすら思う私がいる一方で、

言語化されない感覚に価値はなく、議論にならない会話を無益な物と切り捨てられる、

そういう人がいるんだ!!!



おもしれー!




私は、自分の意見や立場なんてものはあまり価値がないと思っています。
何かを正しいと言い募ることには何の快楽も喜びもありません。
そんなことよりも、私は一分一秒でも長く気持ちよいことをしたいし、この世につまらないと思うことをひとつでも減らしてより多くの物を楽しみたいのです。

そのためには、強い感受性とタフな肉体以外に必要な物はありません。
イデオロギーやプライドなど燃えないゴミの日に捨てればいいのです。

それが唯一の立場といえば立場です。しかし有名無実なのは言わずもがな。
ニュートラルというのでもないし、
私は、ただただ強欲なのです。


そしてこの立場の一番の敵が、差別と偏見です。
差別と偏見は自分の視座を狭め、貶め、すべての人から楽しみを奪います。
そして「こいつよりは上だ」「こいつとは違う」という本当にちっぽけな見栄を守るためだけに人を排除したりしようとするのです。
くそったれが!


そこに楽しみや喜びがなければ誰に従う義務があるのだ?と問いたいね。


ただ、私のこの快楽というものが刹那的であることは否めないのです。
決して社会的でもなければ建設的でもありません。
そして世の中には殺人の快楽や禁忌を犯すという快楽も根強くあるので、
それに対して拒絶できない私の倫理はやはり破綻しているのです。

だからこれは倫理ではなく我欲で、声高に叫べるものではないなあと思うのです。
否定できない強い欲求ではあるけれど。




「論理的な会話」や「建設的な議論」を会話の重要な目的だと考えている人たちに対する質問がいくつかある。

・論理的でない感覚やそれを言語化できない人間は切り捨てる(排除する)ことになるが、それは「損」だとは思わないのか?

・たとえば知的障害があったり精神疾患がある場合そういうことは困難になる場合があるが、その人たちの持つ感覚や言語、たち振る舞いはまったく「意味がない」または「存在しない」ことになるのか?

・自分が認識できるもの以外に価値を見い出さないというのはあまりにも傲慢な態度ではないか?

・私はそれこそ「人をなめた態度」だと思うが、どうか?

・感覚を広げていくことに関しては興味関心はないのか?そこに快楽はないのか?

・というか刹那的な快楽は価値として認められないのか?



私はまったく誇り高いわけでもなければ自分に自信があるわけでもありません。
人並みに評価されたいとは思うけれどどうすれば評価されるかということまで頭も回りません。
自分が計画を立ててそれに沿って行動し自分が狙った通りの評価を得たときに、
「やっぱりね」以外の感想がなくとてもつまらないからです。
私の脳はつまらないと思うことに対しては本当に動きが鈍くていけません。

自分が面白いと思うことを心のままに表現できる人間が一人でも増えればいいと思って教師になろうとしています。
自分とは全く考えの違う人間や、思いもよらない発想をする人間、
そういう人が増えれば増えるだけ世界が強く新しく楽しくなるからです。
そう、世界が!

ただ、これは野望であって、教員の基本的な業務とはやっぱり異なるのだと思います。
私は論理に批判されない技量や納得してもらえる知識量を持つ必要があるのだということも痛感しています。



でも、それだけじゃないよね。



楽しいっていうのは、楽しいっていう感覚でしか理解できないはずだもん。



そういうことを、今度引っさげて言ってみよう。
by mouthes | 2014-03-22 03:19 | footmarks