皆殺し文学はやめだ

by mouthes

ここには喜びがある

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「かぐや姫の物語」観てきた。
観る前は「おもひでぽろぽろ」で感じたぎゅーっとした感情をまた味わってしまう、
と思うと期待と緊張で胸が張り詰める事態でした。


しかし観終わってみると、全然しっくりこない・・・
好きなシーン、言葉、作画、たくさんあるけれど、
私の何かを変えてしまうようなあの感覚が、味わえない・・・

そしてありきたりの問いに至るのです。

「どうして今、『かぐや姫』なの?」



歳を考えれば遺作だろうし、
数十億を投資した大作だって聞いたし、
「風立ちぬ」みたいなわかりやすいメッセージが、このよくできた物語のどこにあるんだろう?



答えはここにありました。


雨宮まみ「戦場のガールズ・ライフ  『かぐや姫の物語』の、女の物語」



私には、わからなかったなあ。
わからないことで気付いた。
私は、「女として生きる外圧」を感じないまま24年間生きてきたんだ。
その外圧と苦しみを体験したことがないから、女なのにわからなかったんだ。


私の父や母は、末娘の私を「女」として育てることがなかった。
歳離れた二人の兄もそうだ。
傍にいてくれた友達も、恩師もそうだ。
私は「私」として、24年間豊かに育まれてきたんだ。


私にとって私が「人間であること」は当たり前のことだ。
男女なんてしゃらくさい言葉が邪魔できない、心の交わりが私にはある。
引け目も、意地もない。



それだって、惨めで苦しい思いはたくさんした。
「女」と見られぬことを理不尽だと思った。
そして「女」として満足に振舞うことのできないかたくなな自分が嫌だった。
外圧を加えようとする者を跳ね返せる、自分の強さが邪魔だった。

従順になれたらよかった。
みんなが良いと思うものを良いと思いたかった。
あの輪の中に、どうしても入りたかった。




だけど、できなかった。




「女になりたい」、と望んで、
「女」になり始めたのはつい最近のことだ。
私はきっかけと鍛錬でだんだん「女」になり始めた。
自分の頑なさが溶けていくのがうれしかった。
「子どもでないこと」は限りない喜びだった。
この体が気に入っている。




だから私には、「かぐや姫の苦しみ」がわからない。
当たり前のように女として見られる苦しみが、
人の期待に答え続けられる覚悟が、
私にはわからない。

女だったらわかるわけじゃないんだよ。
体験したことのある人だけが持てる実感が、この物語には確かにあるのだ。




「おもひでぽろぽろ」で私が感じた気持ちを、雨宮まみさんは「かぐや姫の物語」で感じたようだった。

「どうしてわかるの」「なぜ知ってるの」
そうだよ、高畑勲はそんな物語を描ける人だ。
山田太一やサム・メンデスと同じように。




私は、あの邪魔だった私の強さを、苦しみから逃げられない頑なさを、
心の底から嫌っていた。

私の望み通りでない、欲しいものが手に入らない自分が嫌いだった。

だけど、だけどね。

今は愛してるよ。
愛されているということが分かったから。
その強さが、頑なさが、私に喜びをもたらしてくれたから。



この愛はメッセージ。
祈り!光!続きをもっと聞かして!








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by mouthes | 2013-12-20 11:57 | footmarks