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皆殺し文学はやめだ

by mouthes

ドラマチック執着

ドラマのような出来事と愛についての考察のいくつか。






月曜日、約束をすっぽかされた。
約束、であったかどうかが微妙なところだが、何の連絡もフォローもないところを見ると、
やはりすっぽかされたのだなあと思いながら店を出た。
「別れ」となるであろう、大切な日だった。

帰り道は、怒りやむなしさというよりも不可解のほうが強く、
「こんなことをされる謂れはないぞ」とその理由を探っていた。

方々で相談がてら愚痴をこぼしながら、面白おかしく顛末を話す。
やはり誰が見ても不自然な状況ですっぽかされたようで、
ますます理由がわからない。


約束したと思っていないのでは?
急に用事が出来たとか?
わざとこちらに不快な気持ちを持たせるために?


「すっぽかされた」という事実からあまりポジティブな理由は考えられないのだけれど、
「最悪の事態」を考えてみてもどうにもしっくりこない。
だって向こうにとっても損しかない。
私みたいな距離の遠い人間を雑に扱うなんて。
悪評とかたったらどうすんの?
それにその人の人格とも符合しない。
私は10年来の友達でもなければお母さんでもないのだから、甘えられているとも考えにくい。
拒絶されるほど近づいた覚えもない。
関係を断つにしてももっと禍根を残さない簡単な方法があるはずだ。
わざわざ、こんな風にするなんて、簡単には納得できない。




最後に相談したお姉さんが、「なんでもなーいメールでも打ってみたら?」というので、
「打ちませんよお~」などといいつつ、「そうしてみる?」なんていって、
「月曜に会えなかった、別れを言いそびれた云々」というメールを送ってみたところ、すぐに返信があった。

「月曜はいけませんでした。ではまた」程度の内容の!




なんだか明確に怒ってらっしゃるような気がして、
というかそれを伝えられているようにも感じ、
これもまた率直に聞いてみる。




「そうでなかったら考えすぎですが、何か怒っていますか?」

すると「考えすぎです(笑)」だってさ。



しかし怒っていたは怒っていたようで、やつあたりをしてしまったといって謝られた。
これはどこまで真に受けるものやら、と思いつつ、やはりよかった、とも思うところ。

まだ、微妙なのだ。
負の感情をまっすぐに伝えられるほど、関係が成熟していない。
それくらいわかってる。



いろいろなことを話して過ごした時間は、会った回数を考慮すればかなり長い。
でも私はこの人のことをまだあまり知らないし、この人に対する自分の感情を図りかねていた。




また、気持ちを押し付けて関係を壊してしまうのが怖かった。
私の思い通りにならないことに対して、癇癪を起こしてしまいそうな自分が嫌だった。
物として見られることのみじめさで、窒息しそうになるのはごめんだった。




だけど、こうした「関係に対する執着」が、なんとなく自分の中にドラマを形成して、
わたしはちゃんと今、「恋をしている」と言うことができる。
パッと見て好きになったんでもなければ、一緒にいたことの惰性で情が湧いたのでもなく、
きっかけと執着でひとつずつ関係を積み上げていくことを経験している。





朝起きて、私は新しい恋に浮かれていた。
オザケンなんか聴いて。









卒論のめども立ちつつあり、なんだか一歩踏み出すたびに自分が新しくなっているような気持になった。
空は晴れてる。
お気に入りの靴が履ける。
空気は冷たくてコートは暖かい。
世界がキラキラ輝いてどんどん自分の中に入り込んでくる。



そんな風に自転車を走らせて、踏切で止まった。
顔をあげて、何気なく向こう側を見る。











ほとんど一年ぶりに、見知った顔を見つける。

この一年、同じ地域に住んでいたのにまったく顔を合わせることはなかったのに。

この時間に踏み切りに来るのは大学が後期に入ってからほとんど変わらずにしていたことなのに。

顔を合わせてしまうのではとひやひやしていた時もあった。

とても平静を装えるとは思えなかったから。










でも、私は少し慌てたくらいで、それに押しつぶされることもなく、
踏切が開いたときに目を合わせないように通り過ぎた。



私に与えられた新しいもの、新しいからだ、新しい思考、
そうしたものが、その人に対する負の感情や、自分に対するみじめさを雪いでくれていた。

私は、あの時みじめで弱くて身勝手に壊すことしかできなかった私じゃない。
あの人のかわいそうなところを、憎むしかできなかった私じゃない。



「憎しみはなにも実らせない」、だからね。




卒論は、図らずも性愛について書いてる。
「キリスト教的な愛」について学ぶ中で、
それが「抽象概念」ではなく「体験に基づいた実感」であることを知る。

そして、私もそれを感じたことが、確かにある。

すべての行い、それは良いとされる行いも悪いとされる行いも、
愛を達成するためにある。

愛とは、「他者を生かす」ことだ。

他者を生かすことで、私は最大に生きる。

それは実感を伴った真実だ。パウロや、アウグスティヌスや、ルターや、カルヴァンは、ちゃんとそれを体験していた。
ある種普遍的な知恵のようなものだ。

私たちは、私たち自身のことだけを考えているうちは、死に向かっている。
そして、それは徹底したディスコミュニケーションであり、思考停止だ。
イメージとしては窒息に近いかもしれない。
ミスチルみたいな、自分らしさの檻とか、そんな生易しいもんじゃないよ?
密閉された狭い部屋で自分の吐いた息に押し殺されるような、切迫した状況。



他者を生かすために世界に働きかけるとき、私たちは私たち自身から抜け出ることができる。
それが「本来的な生」なんだって、おにいちゃんに何度言われても理解できなかったな。

自分から勉強したとき、やっとわかったよ。




だから、私はもうこのドラマには押しつぶされない。
私はもう、あの人を憎んでない。
いまだに絶望的に自閉しているあの人が、愛に触れて変えられますようにと、



祈ることだってできる。
難しいけど、できるんだよ。



愛し愛されて生きているからね!








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by mouthes | 2013-12-12 18:59 | footmarks