人気ブログランキング | 話題のタグを見る

皆殺し文学はやめだ

by mouthes

02. 嘘


あの子に謝りたい。
美佐子。
本当は名前を呼ぶ資格さえない。だからあの時声をかけることもできなかった。
額に手を当て、一点を見つめて何かを考えるのはあの子の癖。
その癖がいつの間にか移るほど一緒にいた私たちの関係は、今はもうない。
なくなってしまった。
私たちは何の関係もない。
だから、私が彼女にすがることは許されない。

美佐子は繊細な女の子だった。
周囲もそれに気づいていた。
ただ、解釈の仕方はまちまちだった。
彼女はその繊細さで他者とたちまち感応し、その人の踏み込まれたくない場所を暴いてしまう。
だから、彼女の視線を怖れる人たちが多かった。
彼女にまっすぐ見つめられると、踏み込まれたくない、触れられたくない部分に導かれてしまう。
美佐子はそのことに十分自覚的だったので、あまり人をじっと見ることはしなかった。
どの人ともある程度距離を保って、聞かれたことに曖昧に相槌を打っていた。
そんな態度だから「そうだね」とか、「いいんじゃない」という言葉をよく口にしていた。
そしていつでも窓の外を見ていた。
黙っている時間が長くなり、何を考えているのだろうと思った時に、ちょうどよくつぶやく言葉は、いつもこうだ。
「とても眠いの」。
高校の教室は彼女にとって牢屋のように狭く、初夏のようにぬるく、砂嵐のテレビ画面のような興味のないざわめきで満ちていた。
私たちは、窮屈を共有していた。
自分の中に抱えているものが、私たちを引き合わせた。
早くこの場所から解放されたかった。
だけど何もしなかった。
ひたすら待っていた、新しい何かを。
何もかも吹き飛ばしてくれるような突風を。
途方に暮れてしまうようなとんでもない出来事を。
一滴で一瞬にして日常の色を変えてしまう魔法の薬を。
私たちは待っていた。
ただじっとしたまま。

「どこか遠くへ行こうよ」。
いつもの電車の中で美佐子はそうつぶやいた。
車内アナウンスに紛れてしまいそうな小さな声で。
このまま電車に乗り続けていれば、自分たちの知らない遠くの場所へ行けるはず。
お金なんかないけれど、改札も吹っ飛ばして、飛び出してしまおう。
学校へ続くこのレールの上から。
窮屈なあの場所から。
力のない毎日から。
私は一度だけ彼女の顔を見て、うつむいて、黙った。
頭の中では飛び出した後の現実のことばかり考えていた。
見知らぬ警官や、怒髪天を突くと言わんばかりの両親の顔、変わらない日常。
埋没していればかかわりのない面倒事がどんどん頭の中を埋め尽くしていく。
美佐子がこちらを見ているのがわかる。
じっと、私を見つめている。
「嘘だよ」。
もう一度私が彼女を観たときには、彼女はすでに前を向いていた。
いつも見ている、窓の外の退屈な景色を眺めていた。
とても眠そうに。
「え?」と聞き返したけれど、もう何も答えてはくれなかった。

それからなんとなく美佐子は学校を休むことが多くなり、
受験を目前に控えた年の9月に辞めてしまった。
私はその理由すら知らない。

私が美佐子にしてしまったことは、いや、何もしなかったことは、彼女を傷つけただろう。
だけど、あの時の自分にはそうすることしかできなかった。
それだけはよくわかっている。
私たちは出会うべくして出会ったように、別れるべくして別れたのだ。
わかっていても、後悔から逃れられない。
足もとの影のようについてくる。
私の足からのびる、美佐子の形の影。
光が当たるとはっきりとしてしまう。
彼女の存在は私の中でどんどん大きくなっていって、私自身の大きさをはるかに凌ぐ。
陽が沈むごとに伸びていく影を見て、そんなことばかり考えている。
窮屈と退屈の中で彼女のことを思い出す。
そしてそこから終ぞ抜け出ることのできなかった自分を。
by mouthes | 2012-10-28 16:17 | words