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皆殺し文学はやめだ

by mouthes

自分を憐れむ歌

いまよりもっと小さい頃、怪我をすることはある種の憧れだった。
切り傷も、骨折も、大きくいえば病気も、
なんか羨ましかった。
「何針縫った」とか首から下げる三角巾とか、立ちくらみの経験さえ特別な感じがした。

そういうのが羨ましかったのは、人目を引くからだったと思う。
周囲の気遣いも、好奇心も、すごく羨ましかった。
常にそういうものの的でいたかった。
こういう風に考えるのは私だけではないと思うけど、
私は人よりも結構しつこい質なので、そう思い続けている期間は長かったと思う。
そうこうしているうちに一番恥ずかしい14歳という年頃になり、
理由もなくやさぐれた。振りをした。
「私って、かわいそう」というどっから来たのかわからない自意識に溺れて、
ミスチルを聴き漁った。
2003年の中学でもクラス中でミスチルが流行っていた。
多分今もそうなんじゃないかと思う。
Coccoとか鬼束ちひろも手堅いラインだ。
学校で一番かわいい女の子たちはaikoとかジュディマリを聴いていた。
そういうことだ。

でも、すぐつまんなくなってやめた。
つまんないことには興味もなくなり、
学校に行く回数も減り、
遅刻と早退ばっかりしてた。

学校でも家でもない場所に頻繁に行くようになって気づいたことがあった。
自分が傷ついていようがいまいが人様にはあんまり関係がないということだ。
私の家やなんかと比べて、私が傷ついていることを気にする人は外にはあまりいない。
そしてそれはたいした問題ではなくて、
傷つこうが傷つくまいが、問題は自分に必要なものを手に入れることだ。
そして、欲しいものを手に入れるのに一番邪魔なのが、見栄とか下手なプライドだった。
またそこからくる「自分はかわいそうだ」という考えでもあった。
自分を大事に思うあまりに、人からよく思われたいともがいて疲れて、自分のことをかわいそうだと思う気持ち。
自分のことを哀れんだって状況は変わらない。
現状に満足して忘れた頃に同じことを繰り返すのが関の山。
必要なものを手に入れるためには、具体的な反省と弛まぬ努力と挑戦の連続しかない。
だから、私がかつて憧れていた「かわいそうな怪我人」は、
実際には私の欲しいものから一番遠いところにいたわけだ。


そう思うと、よりいっそう「自分はかわいそうだ」という考えが怖くなった。
たとえそうだとしても、そう思ったらおしまいだと思った。
おしまいだけは嫌だ。
おしまいは、かっこわるい。なんか間抜け。ダセー。そんで、負けだ。
勝てないかもしれないけど、負けたくはない。
好きな漫画で何度も目にするこの台詞に急き立てられるように、挑戦し続けて、戦績は芳しくない。
でも白星もある。
最近はそれで結構満足だ。

鈴茂さんの「しらふで生きる方法」という中編をよんで、
そう思うこともまたなんとも青臭いなあと思った。
私にとってはやっぱりまだまだ大人の本だった。
大人は私よりもずっとくたくたで、寂しくて、光のないような道を歩いてる。
だけどかわいそうじゃないんだ。
自分のことを哀れまない。
哀れなときもあるけど、そうじゃないときもあることをちゃんと知っている。
そうじゃないときもあるけど、哀れなときもあることを受け入れている。
問題はそんなことじゃなくて、・・・なんなのかは、まだよくわからない。
でもそういうことじゃないらしいってことは、何となくわかる。
あたしはまだ子どもだから、「自分を哀れまないこと」で精一杯だけど、
大人はそうじゃないらしい。
その何歩か先があるらしい。
そんな風に思った話だった。
ことあるごとに思い出す、印象に残る描写が多かった。
by mouthes | 2011-09-22 11:56 | footmarks