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皆殺し文学はやめだ

by mouthes

松ヶ根乱射事件

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山下敦弘監督の作品、あまりぴんと来てなかったけど、
面白かったな、松ヶ根乱射事件。


この人は、「空気人形」もそうだけど、タイトルがうまいよなー。
タイトルだけでもう何かが起こってる感じがするもん。


新井浩文が好きなので、こういう胡乱な目の人が好きなので、
それだけでも満足できるんですが、
私がこの映画を好きな理由は、また別のところにあって。




「ソーシャル・ネットワーク」を観る直前の時間にはたと気づいたんだけど、
あまり、映画そのものにドキドキしてないのです、ここ最近。
中学生の時は、映画を観るってことはかなり特別なことで、
どんな映画でもそれに埋没するように集中して観ていたのに、
最近は、どこか侮っているというか、観る前から少しがっかりしているというか、
「これを観たところで私自身は変わらない」と高をくくってる感じがある。
なんでそんな風に思ってしまうのか、自分でもよくわからないけど。


これはきっとよくあることだと思うんだけど、
私は中学生になるまでは、現実と空想の境はかなりあいまいで、
自分が体験したことの記憶と、自分が空想したことは同じくらいの価値があった。
それが、種々雑多な経験を重ねるにつれ、あとは環境が空想の入り込む余地のないほど逼迫してくるにつれ、
私の空想は空想でしかなくなってしまった。
以前の空想は、私を喧嘩最強の不良や、世界で一番哀れな少女にする力があったけれど、
空想を超えるような現実を何度も経験した今、
私の空想は、私を変える力すら持たない。
空想は、祈りや希望ととってもよく似ている。
それが力を持つのは、心から信じている時だけだ。

だから信じていた時に見聞きした物語のすべては、私の力になったけど、
信じきれない今、変わらぬ輝きを放つ代物ではなくなったんだ。


そして、普通なら、というか、聞いた話の多くでは、
空想が力をなくすにつれ、心の枠組みを決める「判断の基準」が人に芽生えるらしい。
「常識」であるとか、「学識」とか「良識」とか、そのようなものが。



しかし困ったことに、私には未だにそれがない。
「常識」と呼ばれるものの一面性も、「学識」と呼ばれるものの保守性も、あまり好きになれない。
「良識」は心に留めるには掴みどころがなさすぎる。
突き当たった疑問や判断するべき問題について、できる限りの力で逃げずに考えてきたつもりなのに、
わからない。いまだに、なにもわからない。

私は、どんな物事でも、このコースに沿って転がせば、
自分にとって適正な判断ができる形になるという、方程式のようなものがほしい。
だから私はクリスチャンなんだ、とも思う。

まあ、依然として何も判断できないんだけど。


映画、というか、芸術は、
「基準」の表現だと思おうし、
「監督(作者)の世界観」ってもんが常に語られるのもその為だと思う。
その基準に心酔する人は「信者」と呼ばれるし、作者は「神」になる。
私も神さまがほしいよ。心酔したまま醒めたくないよ。
でもこればっかりは恋と似たようなもんで、自分の力だけじゃどうにもならんもん。
あたしは、映画に夢中になりたいんだけど、
夢中にさせてくれるような映画がそう多くはないことを知ってしまっている。



だから、面白いとかつまらないとか、いいとか悪いとか、
全然わかってない、ほんとのところは。
雰囲気もつかめてない。
いつも、ほぼ、勘。



ただ、この、松ヶ根乱射事件は、そういう判断をしなくていい映画というか、
あたしを恥ずかしい気分にさせないというか、
ずっと観ていられるというか、
ああ結局なに言いたいのかもわかんなくなってきちゃった。

夢中になれなくても、魅力があるのがわかる、みたいな。

映画全体に蔓延する後ろ暗い気持ちとか、
状況がどんどん悪化していくわりに、それとは全然関係なく暮らしが過ぎていく感じとか、
決定的な理由がないのに神経が昂ぶって破裂しちゃうこととか、
わかる。少しだけ、身に覚えがある。


だから面白いなーと思った。
そういうのを、過剰な演出とか知的な配慮とか一切なく描いてくれると、
助かる。
安心する。
「だよねー」って、身もふたもなく思える。

だから、好き。
松ヶ根乱射事件。
by mouthes | 2011-02-01 17:44 | Movies&Books