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皆殺し文学はやめだ

by mouthes

ラブレター

曽我部恵一『ラブレター』に寄せて


このアルバムが出た頃、私は高一で、確かブログで、「Strawberryを超えている!」と書いた気がする。
でも書いてからすぐに、曽我部さんがインタビューで「ラブレターはStrawberryの良く出来た弟のような習作」と言っているのを読んで、がっかりしたものだった。

もう長い間このアルバムを聴いていなくて、最近になって「聴きたいなあ」と思い出すことが多くなった。
ただちょうど良い機会がなかなかなくて、聴けずじまいだったが今夜!やっと聴くことができた!

そして疑問は氷解した!
何故あの頃の私がこのアルバムを以って「Strawberryを超えている」と書いたのか。

それは、このアルバムがが習作だったからこそなのだった。

Strawberryは、完成されたロックンロールのアルバムに違いない。
ロックは、ロールすることが、ロールし続けることが難しいのだと思う。
ロックになるのに技術や戦術はあまり重要ではない。
それこそアティチュードや、早い話が魂、心意気がものを言うのだし、それありきだと言える。
だからこそ「ロック」という言葉があらゆるジャンルを横断しながらも、薄められずに今なお在り続けていられるんだと思う。
ロックはファッションだ。
「ロックだ」と名乗るだけで良い。
それでこそのロックだし、それ以外はそれぞれの勝手だ。つまりなんだっていい。
何をしようにもどーしようもない人たちが、それでも誰かに認めてもらおうと思って始めたことだ。
煌めきこそ真実だけれど、外れ難い定義や侵してはいけない聖域なんてないはずだ。

そして、大概の煌めきは一時だから煌めけるのだ。
それをし続けていくことは、きっと何よりも険しい道程になる。
輝き続けること、そしてそれを自分に求め続けていくことは、きっと滝に打たれ続けるように苦しい。
その道程を思うとき、あたしはロックンロールに打ちひしがれ、呑みこまれる思いがする。
きっとこれが畏敬というやつだ。
ロックンロールは素晴らしい。
でも畏れるあまり、弾き出されてしまうときが、避けがたくある。

それは今夜のような情けない夜だったりする。

誰かに押さえ付けられているせいで、自分のやりたいことができないのではなくて、
やりたいことができる環境で圧倒的な自分の力不足を悟ったとき、
あたしを奮い立たせてくれるのは、威風堂々と後光の眩しい「ロックンロール」ではなくて、
はかなくとも力強い蝋燭の灯のような「ロック」なのだ。

『ラブレター』の中にはその当時曽我部さんがやっていたこと、やりたかったことが詰まっている。
作りこまれた結晶というよりは、結晶のかけらの寄せ集めで、言ってみれば煌めきのパッチワーク的なものだと思う。
しかし何より、なんだか「すごいことが起きてしまいそう」な強い予感を秘めている。
この予感こそが「ロック」の根源なんだ、と私は信じている。

習作だから素晴らしい。
予感を体言しているこの音楽が、あの頃の私を動かしていたし、
今夜の私を掬い上げてくれたのだ。

そういうわけですっきりしました。
おやすみなさい!


♪曽我部恵一「ぼくのbabyによろしく」
by mouthes | 2009-03-09 02:34 | moments!